「宗教」ってなんだろう?Sawaの考えること



アッサラームアレイコム
 こんにちは。今日は「宗教」とはなんぞや?について私なりに思うことをまとめてみたいと思います。

 日本では「宗教」というとなんだか怪しい、とか怖いとか神頼み、勧誘が迷惑、心の弱い人が縋る、といった感じにあまり良いイメージがないというか...
宗教と聞くだけで毛嫌いしたり脊髄反射的に嫌悪感がまず出る、なんて人も中にはいたりしますが、実際のところ「宗教」というのはどういうものなのでしょうか?

*以下は私、Sawaの考える「宗教」です。

 例えば私はイスラム教徒ですので(かなりゆるゆるムスリマですが)豚とアルコールは口にしないし、抜けてしまう時もありながらも義務の礼拝はして、ラマダーンには断食もし、ヒジャーブに肌を隠す、という最低限のドレスコードは守って生活しているわけですが...
では「戒律を守る」ことが「宗教」なのか?と言われると、これもまた違うと思うんですね。
 もちろん、ムスリマである以上はアッラーが命じたこと、禁じたことは守らなければならないのですが、戒律を守るというのはまずは信仰があって、信仰やその意志の現れとして行動で示すものであって、別に「戒律を守る」ことは目的ではないわけです。
 正直、日本人でイスラム教徒で礼拝も断食もして、となると周囲には驚かれるし、時には感心する人もいます。
 でも、「礼拝」すなわち”祈り”というのは自分を生かして下さっている存在(私にとってはアッラー)に感謝を示す行為です。特にこれといった宗教を持たない人でも、何かの折りに目に見えない何かに感謝の気持ちを持ったり、自然と祈ったりすることはあるでしょう。

でも...

何かに感謝をする、あるいは何かしらの宗教儀礼をするってそんなに特別なことでしょうか?

 日本人に馴染みのある仏教に例えてみましょう。仏教徒の方は仏様を祀っているので、程度には差はありますが勤行として朝晩にお経を読んだり、お茶やお仏飯を備えたり、花を活けたり、お線香をあげたり、仏壇に向かって手を合わせたり色々なことをします。
 これはイスラムで言えば、「日に五回の礼拝」に当たるかと思いますが、これは人に差はあるので義務は勿論のこと任意の礼拝もきっちりする人もいれば、義務の分だけなんとかこなす人、義務の分も出来たり出来なかったり、義務の分すらもしない人...と色々な人がいます。
 最近は仏壇に手を合わせる機会も減っているかも知れませんが、一般的には大抵の日本人は「宗教なんて」と思いながらも実際には、祖霊信仰でご先祖様に感謝したり、墓参りに行ったり、仏壇に向かってあれこれ...と宗教儀礼、崇拝行為をしているわけです。あるいは年明けには初詣に行ったり、子供が出来たら水天宮に行ったり産まれたらお宮参りだのなんだのと色々なことをするわけで。
 先に挙げたようなことでなくても、ひと昔前なら朝一番に「今日も頑張れますように」日暮れには「今日も一日ありがとう」と”おてんとさん”に手を合わせたり、現代でも何か”おてんとさん”的なものに対して自分の中で感謝する気持ちを持ったり、というのは何かしらあると思うのです。
 でも、当の本人は別に「私、宗教やってる!」なんて思わないし、日常生活の中で自然な行為として、日々の営みとして行っていると思います。
 
 ですので、礼拝や断食といった形で儀礼を行うのは決して特別なことではないのですただ、日々の営みとしての自然な行為を、イスラムではそれが定められた形式で表わしているだけなんですね。
 
 そして、次にお話ししたいのが「信心」について。私は基本的には「宗教」と「信心」というのは別物だと思っています。
 というのは、この二つのものは確かに一致もしますが、世の中には特定の宗教を持っていなくても(むしろ心底嫌っていても)自然と殆どの宗教で語られているような道徳的な行為を行っている人もいれば、無宗教だけど”何かしら”の人智を超えた偉大なものに対する畏怖心を自然と備えて、悪から離れて他者の利の為に行動をする人、というのが存在するからです。(勿論、逆もしかり。)
 
 また、何かの宗教に属す、或いは特定の宗教団体に属して何かしらの宗教活動をしているから、とそれは必ずしもそれが「信心」というわけではありません。
 何故なら、宗教というのは”日々の営み”であるのと同時に自身を戒める道徳であり、生き方の指針でもあるからです。
 だから、ただ「私はイスラム教徒なのでアッラーを信じています」「仏教徒だから毎日仏壇に手を合わせているよ」だけでは駄目なんですね。
 アッラーだけを唯一の神と信じていて義務を果たしていたとしても、例えばそれがただ親に教えられて小さい頃からやっている”習慣”であってはならないのです。いくら戒律をきちんと守り、義務の崇拝行為をしていても、親を敬わなかったり、人の悪口ばかり言っていたり、ザカートを払っているのだからと喜捨の出し惜しみをしたり、誰も見ていないから(実際はアッラーやおてんとさんが見ていますけどね)と悪さをしてはならないのです。
 習慣で毎日、仏壇に手を合わせてお経を諳んじていたとしても、それだけではダメなんですね。だから宗教を持つこと、と信心を持つことは必ずしもイコールではないんです。 

 神頼みについても、「宗教」というのは本来、信仰や来世への希望をもって現世の苦労を和らげるものですから、神仏などに何かをお願いすること自体は悪いことではないです。でも祈りというのは先も言ったようにまずは「感謝」であり、お願い事も「どうかお力添えをして下さい」ということなので、「○○お願いね」だけで丸投げにすることではないのです。
 
 皆さんの周りにもこんな人はいませんか?
――有名な神社に行ってお守りももらったのに試験に落ちた。
――○○を祀っているけどちっとも商売が繁盛しない。
――世の中、災害や戦争ばかりだし神なんてどこにいるんだ。

 イスラムではこれは”タワックル”と呼びますが、いくらアッラーにお願いをしてもまずは自分が努力することが必要なんですね。でなければ神様は助けてはくれません。(日本でも自助を尽くして天命を待つ、と言いますよね。)
 
 例えば、イスラムでは子供は生まれてくるときに皆アッラーからその人生を生きる為の糧をもらってこの世にやってくる、と言われています。現世で子供に必要なものは全てアッラーが用意して下さっているんです。
 でも...現実問題、子育てには莫大なお金が必要です。いくらアッラーが糧を用意して下さっている、と言ってもお金は空から降ってこないし、子供を食べさせる為の食べ物は地面から湧きでてはきませんよね?まず親が働かなければ、何がしかの収入源がなければ子育てに必要なお金は入ってこないし収入を良くする努力をしなければ、収入が増えることもありません。だから「神頼み」もまずは「自分が精一杯努力すること」が前提

 もう一つ例を挙げると、今は私は資格試験を目前に控えているので時々アッラーに「無事に受験勉強をまっとうできますように」とか「試験に受かりますように」といったことをお願いする時があります。でも、そこで受験勉強をしなければまっとうのしようもありませんし、そもそも受かるわけがないわけで...やはりそこでもまずは”私の努力”が前提条件として働くわけです。
 そして、私は一介の有限の人間であり、全てはアッラーがコントロールしている以上、努力も必ずしも報われるわけではないし、アッラーは私達には知りえない叡智でもって人間を遇します。
 だから落ちたとしても単純にもう一息だったか、「多分何か私には分らない意図があるんだろう」ということですぐに気持ちを切り替えられるというわけです。

 日本ではお不動さんに縁切りしてもらったり、えべっさんや大黒さんに商売繁盛をお願いしたり、霊験あらたかな○○に行ったり、○○大社に行って縁結びなどなど現世利益的な信仰が盛んなので、ついついすぐに結果を求めてしまがちですが...
 でも、神様は魔法使いでもなんでもお願い聞いてくれるランプの精ではないのです。だから恩恵も与えれば、人間にとっては不幸に感じる都合の悪いことも”試み”や”成長のチャンス”として与えるし親が子を躾けるように時には厳しい態度も取ります。
 ですので、神頼みといってもそれはあくまで「私も頑張るけれどどうかお力添えをお願いしますね」ということであり、上手くいえば「ありがとう」と感謝を捧げ、何もなくても無事に生きていること、今の生活があることに感謝をする...それが「祈り」なのです。

 「祈り」と聞くと「祈って何になるんだ」となる方もいると思います。確かにいくら私達が祈ったところでお腹は膨れません。祈ったところで収入は増えません。祈ったところで仕事の負担は減らないし、貧乏が金持ちになるわけでも、 目の前の問題が片付くわけでもありません。
 でも、皆さんにもこんな経験はどこかでしているのではないかと思います。
 
 例えば
―――別に問題が片付くわけではないけれど話しを聞いてもらって励まされてなんだか元気が出てきた。
―――大変な状況の時にある人の言葉がずっと支えになった。
―――辛い時にある言葉でそれを乗り越えられた。ずっと○○の歌を聞いて自分を励ました。

 「祈る」という行為や言葉には別に特別な力はありません。それ自体には何かを動かす力はありません。でも、人はその行為や言葉によって自らを支えて奮い立たせる力を持っています。
 私は辛い時や悲しい時、イライラする時によくズィクルをします。ズィクルというのはイスラーム版お念仏とでもいいましょうか、神の名であったり、神を讃える言葉や、一言で済むような短い祈願の言葉を繰り返し唱えるですが、意外と頭がすっきりとして心が軽くなるんですね。
 勿論、イライラの種は変わらないし、大変な状況が楽になったわけでもないし、私を取り巻くものは何も変わっていません。でも私が祈るという行為(ズィクル)をすることで、私の方に力が湧き出てきて状況が変わるわけです。

 いかがでしょうか?このように「宗教」というのは日々の普遍的な営みであり、決して特別なことではないのです。
 私達は宗教というと、ついつい宗教が持つ特殊な一面を見てしまいますが、別にそれ自体は特別なものでも異質なものでもなく、私たちの生活の中に自然と溶け込んでいるものなんだ、というのが伝わると嬉しいです。 
 
 それでは、また次回。マァッサラーマ。

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