民族衣装とターバンに注意?イスラームの困った人たち

アッサラームアレイクム
今日はイスラーム界における「困った人たち」について。
皆さんもご存知の通り、どの宗教にも悪い人もいれば善い人もいます。
良い振舞いで自然とその宗教へ招待する人もいれば、自分たちの利益の為に都合良く宗教を利用して他人に迷惑をかける人もいます。
イスラームでいえば世を騒がすテロがそうなんですが、実はイスラーム界にはテロとはまた別に困ったグループ、というがあります。

今回はそんな彼らの話しです。

まずは特徴を挙げましょう。(知る人ぞ知る有名な一団ですが、名は伏せます)

・彼らはイスラームに無関係な民族衣装に、ターバンをスンナとして着用し厳守します。
また彼らのターバンはイスラームのもの(アラブの伝統のもの)とは全然違う形態をしています。

・彼らはある種の「宣教集団」として活動しています。そして宣教を義務としています。

・彼らは自分たちのモスク以外のイマームの話しを聞きません。モスクでの説教の最中、彼らはひたすらズィクル(アッラーの御名などを繰り返し唱えること)している姿がしばしば見かけられます。
法学者も基本、無視。自称「普通のスンニ」ですが、かと言ってスンニの権威も認めません。

・彼らは「スンナ(預言者の慣行として、倣うことが推奨される行為)」を義務とし、髭をボーボーと生やす、どこでもなんでも床に座って手で食べるなどTPOに沿った行動をしません。

・彼らは時間が来たら所構わず、公衆の面前ででもサラート(礼拝)をします。熱などでロクに立てないぐらいフラフラでも無理やりでも礼拝に立ちます。

・彼らは功徳主義の為、慈善活動はかなり精力的に行うので一見は「善い人」たちに見えます。

・彼らは本山のある某国に独自の学校を持っており、数十日から数か月の合宿を行います。そして独自プログラムで彼ら流のイスラームと宣教方法を学びます。
(経験者の話しでは預言者の時代にないものは全てビドアで、「預言者の時代(7世紀)」という舞台設定でテントと寝袋で生活しているそうな...)

・節度を弁えず相手が誰であっても上から批判、意見します。


それでは、次になぜ彼らはイスラームから外れた困った人々なのか?

・ 彼らの服はあくまで彼らの民族衣装であり、預言者のアラブの服装とは無関係です。
ターバンは確かにスンナですが、預言者自身は一言も自分と同じような服装をするようにとは仰ってはいませんし、またターバンは通常は法学者などが着用しているものであり、一般の信徒には免除されるスンナなので、 一般信徒が(それも非イスラーム圏で)ターバンを着用し、それを厳守しているのは明らかにおかしなことといえます。


・宣教はイスラームではダウアと言います。ダウアは確かに義務ですが、こちらはイスラームの礼拝、断食、喜捨といった五行に数えられる個人の義務ではなくウンマ(イスラーム共同体)の義務であり、自分でなくても誰かが行っていれば免除される義務ですので信徒一人一人に義務として宣教活動を求めるものではありません。
また、彼らの宣教方法はキリスト教の修道会のやり方に倣ったものであり、他宗派やその教団に属さないムスリムの元に出向いて(ガシュト=訪問、といいます)いつまでも居座る、おしつけをする、モスクで勝手に説教をするなど非常に迷惑な方法で行われています。(それこそ「Mの塔」や「S学会」のような)
そして、ダウアというのは例えば、善い行いや立ち振る舞い、言葉などでイスラームを実践し、他の人々に宗教に基づいたその姿を見せることでイスラームに誘うこと、或るいはモスクなどで交流会のような形で非ムスリムにイスラームに興味を持ってもらうことであり、宣教師のように人々のもとに出向き押しつけるものではありません

・彼らはスンナを厳守して常に神を想い、ひたすら唱念することでイルム(知識)と一体化すると考えています。ベースにスーフィー思想があるからですが、よく観察すると彼らはスーフィーに加えてキリスト教と復古主義のイスラーム過激派のミックスであることが分かります。
現世は穢れたものだそうで、あまりイスラーム的ではない思想もお持ちのようです。(事実イスラームは来世重視ですが、だからといってアッラーは現世にその威光、徴として様々な美しい創造物をおいていますし、現世否定はしていません。)

スンナは先述の通り推奨される行為であり、義務ではありません
可能なら極力行うべきことではありますが、行わなくても全く問題はなく、またスンナは周囲の摩擦やトラブルを避ける為に時として避けることも求められるので「スンナだからやらないといけない」「スンナは義務」とTPOに反するのは不適切です。

例えば誰かがイスラームに興味を持っていて、ムスリムと称する人が日本で明らかに浮いた装いをしていたらどう感じるでしょうか。テロリストを彷彿とさせるひげをボーボーと生やしていたら、どこでもなんでも手で食事を摂っていたら、そのような人を見て自分もイスラームに...と思うでしょうか。
イスラームは「易しい宗教」「ステップバイステップの宗教」です。このような思い込みや何でもかんでも義務!義務!義務!と追い詰めハードルを上げる行為は人々をイスラームから遠ざけます。
また、イスラームは人づきあいを大切にする社会的な宗教でもあるので、スンナを遵守するあまり社会との摩擦を生んだり、仕事など社会生活に支障をきたしたりするようでは意味がありません

・サラートはアッラーに命じられたムスリムの義務なのでいかなる時も行わなければなりません。病気のときでも瞼の動きだけでも礼拝はしなくてはなりません。ですが、礼拝の形も保てないような状態で無理やり立ってまで行うのは礼拝を無効にします。また、義務は義務でもサラートの義務には優先順位があります。
例えば昼の礼拝は時間いっぱいギリギリまで遅らせることは許されます。また、サラートは「良い状態」で行うことが求められますので、その時刻だからとすぐに外で公開サラートをするよりは(そもそもサラートは公衆の面前で見せびらかすものではありません)、時間がギリギリになったとしてもモスクや家など落ち着いた環境で集中して行う方がより望ましいといえます。
そして彼らはしばしば礼拝を二つ合わせることは異端である、と主張しますが天候不良や急ぎの時などに礼拝を合わせることは合法であり、平常時でも礼拝を合わせるのは真正な預言者のスンナなので許されます。

・慈善活動を活動指針に入れ、精力的にそれを行っていること、日本でも沢山のモスクを建設するなどイスラーム界に貢献していることは素晴らしいです。
ですが、私たちムスリムが善行を積むのはアッラ―の為であり、アッラーへの崇拝行為として行うものです。報酬を得る為に自分の為に行うのではありません
善い意図のもとアッラーへの崇拝の為に善行を行って報酬を頂くのと、報酬を目的に自分の為に善行を積むべく善行を行うのには大きな隔たりがあるのではないでしょうか。
(イスラームにおける「善行」の考え方について、こちらの記事が分かりやすく説明してくれています)

・彼らは自分のイマームが全て正しいのか、改宗して日が浅い人も知ったかぶりでよく批判をします。また、自分が知らないことに対しても間違っていると非難をします。
私もそれで不信者呼ばわりされたり、改宗してウン十年の大先輩を非難する姿をみたりしましたが...自分なりに思うことがあって、疑問をぶつける、何かを指摘するにしても、礼儀は必要です。

 私達は何かを批判したり、間違いを指摘したりするときはまずはそれについてきちんと知っていることが前提条件になります。”実際がどうなのか”を知らないのにただ「そう聞いた」から非難するのは愚かであり、「自分が知らないこと」に対して何かを指摘をするのはそもそも不可能です。
もし自分がそれについて知らないのに批判をするなら、それはただの中傷・悪口です。また、イスラームでは中傷と悪口は禁じられています。

”聖預言者(彼とその家族の上に神の祝福と平安あれ)が言った。
能力がないのに宗教を布教する者は、それに奉仕をしているのではなく害を与える(ビハール・アル=アンワール)”



 私達は人にダウアをする前にまず自分自身をダウアしてイスラームを学ばなければなりません。また、イスラームの知識に限らず学業、学ぶ行為それ自体が信仰であり義務です。
 特に日の浅い人がダウアしないと!と先走るのは危険なことだと思います。なぜならイスラームには一生を費やしてでも学ばなければならないことが山ほどあり、その正誤やルールを見分けるためにはある程度の知識も必要だからです。
 自分が知らないこと、理解していないことを他人に教えることは出来ません。 (改宗して日の浅い人や結婚などでよく知らないまま改宗した人が、イスラームをよく知らないのを良いことに間違った知識や土地の習慣とごちゃ混ぜになってしまう例は多いです)

 アッラーは真実を求めてジハード(アッラーの道の為に奮闘すること)する者は真実に導き、自分の考えに固執して迷う者は思うままに迷わせ続けます。
 全てのムスリムに真実が開示され、イスラームに沢山の人が招待されること、そして私も正道を導かれることを祈ります。

 それでは、また。次回はシーア派内の”困った人”についてです。
 

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