イスラームの邪視除けファーティマハンドについての考察。歴史的視点から突っ込んでみた。

アッサラームアレイコム
Sawaです。今日は北アフリカを中心にイスラーム圏で邪視除けとして使われている「ファーティマ・ハンド」について。逸話を交えて、別の視点から検証してみようと思います。

っていうか、ファーティマ・ハンドって何?いう方。まずは実際に見てみましょう。

まずはこちらから。

掌の部分に目がついていますね。ファーティマ・ハンドは邪視・邪眼除けなのでこのように「目」がついているものもよくあります。「目」の邪視除けと言えばトルコのナザール・ボンジュが有名ですが、このナザール・ボンジュとファーティマ・ハンドの組み合わせもよく見ますね。

それではお次。

こちらはシンプルです。大きめサイズで浮かし彫りになっていて、目玉つきとはまた違う印象。

最後はこちら。

ピンボケしていますが...ゴールド・タイプ。こちらは透かし彫りでまた綺麗。左右ふたつはメッキで真中はゴールド製。ファーティマ・ハンドはシルバー素材やメッキが多く、ゴールド素材は探した限りでもあまりないようです。
今まで愛用していたのですが、ペラペラで折れてしまったりで壊れるのも時間の問題なのでお蔵入りしています。

先述した北アフリカ、マグリブ地方はもともと8世紀頃に興ったイドリース朝、10世紀ごろに現在のチュニジアで建国されたファーティマ朝など、シーア派王朝の支配地域だったので、その名残なのかこのファーティマ・ハンドは北アフリカでは装飾品はもちろん、ドアノブなどいろいろなところで見られます。
(ドアノブは写真で見たことがありますが、まんまリアルな「手」です^^;)


それでは本題にいきましょう。


~ファーティマ・ハンドとは~

名前の由来は預言者ムハンマドの愛娘ファーティマから。
ユダヤ教社会では「ミリヤムの手」と呼ばれており、もともとの中東などの地域の邪視を信じる風習に後にミリヤムやファーティマの逸話が加わり融合されたようです。
ファーティマ・ハンドはアラビア語で「5」を意味する「ハムサ(khamsa)」とも呼ばれ、イスラームの信仰の基盤である5柱(信仰告白、礼拝、喜捨、ラマダーンの断食、メッカ巡礼) を表している、とも言われているそうな。


~ファーティマはどのような女性?~

預言者ムハンマドの四女(シーア伝承では一人娘、だそう)で「天国に入る女性たちの先導者」とされています。
彼女はムスリマの模範となる女性であり、存命中は貧しい人々の救済や病気や怪我をした人々の手当など慈善活動に尽力していました。
特にシーア派ではアッラーによって預言者と共に不浄を取り払われた「アハルル・バイト(家の者)」の1人で初代イマームの妻にして、2代・3代イマームの母、その後12代まで続くイマーム達の祖ということで絶大な尊敬を集めています。
彼女はアリーとの結婚後、ハサン、フサインの2人の息子と2人の娘をもうけ、632年預言者逝去から半年ほどして後を追うように26歳の若さ(シーア派伝18歳)で亡くなりました。

~彼女の「手」にまつわるエピソード~
ネットでググると

1:夫アリーが第二夫人を娶った時にうろたえて悲しみのあまり調理中に木べらを落としたが、そのまま気づかずに手でかき回していて夫がそれに気付いて叫ぶまで熱さを感じなかった…
このことから「根気」を授ける。
2:夫が連れて帰った花嫁と夫を二階から見て涙を流していたが、床の隙間から涙が夫の肩に落ち、その熱さに目を覚ました夫は結婚を取りやめた。このことから同情や保護を授ける。
3:アリーが息子たちを連れて聖戦に行く際にその衣に両手を置いて無事を祈った時、彼女は手にヘナを施していたのでその跡がついた。そして息子たちが戦いに加わると戦況が好転した…
このことから「幸運」を呼ぶとされるようになった。

といった話しが出てきました。

でも私、これ疑問なんです。

まずはへナの手形がついて、アリー達が参加してから戦況が好転した、という話し。
ファーティマが亡くなったのは632年だと前述しました。そして、長男ハサンが生まれたのは624年。
息子たちは母ファーティマが亡くなった時は10歳にも満たない少年でした。そしてファーティマの結婚、出産後アリーが加わった聖戦はハンダクの戦い(627年)にハイバルの戦い(628年)あたりかと思われ...
史実としてもハンダクはメッカ優勢だったのがメディナ優勢になり勝利、ハイバルも敵将を倒し、それまで誰も落とせなかったというハイバル砦を陥落させるなどアリーは大活躍なのですが、
その時の息子たちの年齢は片手にも満たず、どう考えても聖戦に連れていける年齢ではなく…
他にも遠征や戦いがあったにしてもそもそもファーティマ存命中に息子達が戦地に行くようなことがあったのか?
また、アリーはアラビア中にその名を轟かせた勇猛果敢な戦士でもあり、いつも預言者から旗手を任されていた人物でもあるのでアリーの活躍で戦況が好転するのも不思議なことでもなく...
ということでエピソードの出処は一体どこなのかな~と不思議に思うところなんですね。

次に第二夫人の話し。実際にアリーは、(詳しい史料は残されてはいないようですが)ファーティマとの結婚後アムル・イブン・ヒシャームの娘と婚約をし、妻に迎えようとしていたそうです。
そしてその父親というのが、預言者が宣教中に散々彼らを迫害して兵糧攻めにするなど預言者とその従者を苦しめた、いわばイスラームの敵ともいえる男であり...恐らく政略結婚的な意味合いもあったのだと思うのですが、
実はファーティマと結婚した頃、アリーというのは超貧乏だったんです。

彼はムハンマドと同じ一族で名家の生まれではありますが、家が貧しくムハンマドと共に叔父の元で育ち、更には10歳でイスラームに入信して以来、ずっと従兄でもあるムハンマドと共にイスラームの為に戦い続けてきた男なんですね。
だから受け継ぐ資産もないし、聖戦に身を投じてきたので稼ぎもなく、結婚した時も先の戦いでの戦利品の盾しか持っておらずそれを売ってマハル(婚資金) にしてファーティマを娶ったので、結婚後もしばらくは当然貧乏暮しだったわけで...
第二夫人を娶ろうとした時期が子供が生まれる前なのかその後かは分らないけれど、そんな暮らしでどうやって二人目を娶ろうというのだ、アリーよ...という状態なんですね~。
結果的に結婚はイスラームの敵の娘とアッラーを愛する者が一つ屋根の下で暮らすことは出来ない、というので取りやめたようですが。
あと、当時のアラブの家って二階建てだったんでしょうか?逸話だと花嫁と一緒にいるところにファーティマの涙が二階から降ってきているんですが。それに妻がショックを受け、義父もよく思わないであろう状態で花嫁、それもイスラームの敵の娘を連れて帰る、などそんな冒険行為が果たして出来たのか?
色々と謎が出てきます。

そんなわけでイスラームの護符、ファーティマ・ハンドに突っ込みをいれてみました。
普段何気なく使っているものでもエピソードを知り、掘り下げてみるとまた別のものが見えてきて面白いですね。

*ところで...イスラーム的にはこういうお守り的なものを身につけるのは果たしてOKなのか?という疑問があると思いますが、結論から言うと「好ましくはない」「避けた方が無難」とは言えそうです。
私が今まで確認した限りでは「身につけること自体がハラーム(禁止)」(そういう意図でなかったとしても、ハムサを身につけることでそれが”邪視除け”になるので、結果としてアッラー以外のものに頼る=偶像崇拝につながる)と
「お守りとしての効果を目的に使うのは駄目だけれど、単なるデザイン、モチーフとして身につけるだけならOK」と見解が分かれています。
(きちんと質問をしたことがないのでシーアは分かりませんが、スンナ派はこんな感じ)
とはいえ実際には、チュニジアでも親戚の方が「BadEyeから守ってくれるのよ♪」なんて言ってハムサを下さったり、文化や風習としては宗教とはまた別に人々の間で根付いているようです。
 
ーーーーーー

そういえば第二夫人といえば...
実はシーア派のイマームの系図ではアリーにはファーティマの他にもう一人、妻がいてムハンマド・イブン・ハナフィーヤという息子がいるんですね。

Wikipediaによると彼はアリーの末子で分派であるカイサーン派の祖になっているのですが、調べたところ母親の名はハウラ・ビント・ジャハル。元奴隷でバヌ・ハニーファという部族名からハナフィーヤという姓になったそう。
先述の娶ろうとした花嫁の父親はアムル・イブン・ヒシャームと書きましたが、実は彼はまたの名をアブー・ジャハルというんですね。
でも彼はムハンマドと同じクライシュ族の人間なのでハウラとは無関係なのかな。アリーは奴隷から解放して婚姻を結んだそうですが、一体いつ彼女と結婚したんでしょうね。
ファーティマの死後?ちなみにこのイブン・ハナフィーヤはフサインの死後、担ぎ出されてウマイヤ朝と戦い、活躍をしたようです。 


イスラームの王朝や戦争史もなかなか興味深いですが...こちらはまた別の機会にします。
それでは、マァサラーマ。


No comments:

Powered by Blogger.