シーア派が不信者と呼ばれる理由~タキーヤ~



アッサラームアレイクム
今日はシーアの特徴の一つでもある「タキーヤ(信仰隠し)」です。
(ここのイスラムカテゴリーはシーアの話題が多いですが...あしからず)

タキーヤというのは、信仰により殺害など、害を加えられる恐れがある時に自分の身(命)や同信者などを守る為にその信仰を意図的に隠す行為をいいます。

具体的に言うと、例えば私たちムスリムが誰かに反イスラムや敵にあたる人間に捕まって偶像を讃えたり反イスラムなことをしてしまったりしたとしても、心の中には確かにアッラーへの信仰があり、命を守る為、あるいは恐怖心か出た行為ならば許される、
学校などでムスリムであることでいじめっ子に囲まれ、脅しなどからアッラーに背く行為をしてしまったとしても信仰がきちんとあるならば、心の中を全て御存知のアッラーは許される、
或いは私がシーアであることでアンチシーアにボコられるかも!(日本ではまずないですが)最悪死ぬかも!なんていう時にスンナ派のふりをしてもOK、というのがタキーヤです。
(といっても日本でボコられることはまず無いので、アルハムドゥリラー、実践を要することはまずないんですが...このように迫害の恐れがない場合はタキーヤは不要です。)

スンナ派ではこのタキーヤは偽善であるとかイスラーム外からのシーアの異説と捉えられ、タキーヤを容認するシーアはイスラームの教えに反している、シーア教義を非シーアに錯覚させる為の嘘等々と嫌悪されているのですが...

実はクルアーンにはこのような節があります。

”アッラーを信仰した後,信仰を拒否する者。ただし心に信仰を堅持し,安心大悟している者で強迫された者の場合は別である。不信を表わして満足する者,かれらにはアッラーの激怒が下り,厳しい懲罰があろう。(クルアーン16:106)”

この節は教友アンマール(彼にアッラーのご満悦あれ)が多神教徒に連れ去られ、彼らの偶像を讃えたと預言者(彼と彼の家族の上に祝福と平安あれ)に話した時に啓示されたと伝えられています。
 
”「多神教者らがアンマール・イブン・ヤースィルを連れ去り、預言者(S)を非難し多神教の偶像を讃えるまでは解放しなかった。神の使徒(S)がアンマールに『どうしたのか』と尋ねると『悪い知らせがあります。私は預言者を非難し偶像を讃えるまで解放されなかったのです』と答えたので、預言者が『心の中ではどう感じているのか』と問うと、『私の心には今も信仰があります』と答えた。預言者(S)は『もし彼等に連れ戻されたときは、同じようにしなさい』と言った。そのとき、心に信仰を堅持し、安心大悟している者で強迫された者の場合は別である(16:106)』が啓示された



またスンナ派ではこの節とタキーヤに関してはハディース集『スナン・アル=バイハキー』を始め、様々の書で記述があり...

 『アッラーを信仰した後、信仰を拒否する者。ただし心に信仰を堅持し、安心大悟している者で強迫された者の場合は別である』の節に関して、預言者は『栄光なるアッラーは仰せになった。
アッラーを信仰した後でアッラーを拒否した者は、神の御怒りに触れる。その者はひどい苦しみに悩まされよう。 
だが、心の中で信仰が確かにありながらも敵から身を守るために仕方なく舌で悪を言った者には何の害もな非難されてはならない。これはアッラーがしもべに心の中で意識して決めたことに責任をもつよう呼びかけられたからである』」
  
 アッラーの御言葉「彼等を恐れて自己防衛のためを除いては」に関して、イブン・ジャリルとイブン・アビー・ハータムが アルッアウフィの経路によりイブン・アッバースから聞いて伝えたところによると、「タキーヤは確かに舌で行うもの。心の中では信仰しながらも(悪を犯す)人びとを恐れアッラーへの不服従を口にしても有害ではない。タキーヤは舌による行為なのだから

「アッラーの御言葉『彼らを恐れて自己防衛のためを除いては』に関して、彼は言った『タキーヤは確かに、心の中にはまだ信仰がある場合の舌による行為である


シーアはウマイヤ朝、アッバース朝時代に長く迫害されており、ただアリー・イブン・アビー・ターリブ(彼に平安あれ)の支持者である、というだけで殺害され殉教する人々もいた一方で、タキーヤで信仰を隠し、表面上は支配者に従い生き延びた人々もいました。
アッバース朝はムハンマド(彼と彼の家族の上に平安と祝福あれ)の叔父アル・アッバースの子孫による、同じ血族の王朝です。
ムハンマド(彼と彼の家族に平安と祝福あれ)との血縁関係を重んじるシーアはウマイヤ朝時代にアラブ至上主義で虐げられていた非アラブムスリムと共にアッバース家に協力をし、アッバース家はウマイヤ朝を倒します(750年アッバース革命)。

ところが...

このアッバース家、無事に王朝を建国したあと態度がガラリと一変し、彼らもまたシーアへの弾圧を始めるんですね。
これは多数派であるスンナ派の支持を得て政権の安定を図るためでもあるのですが、この為にまたまたシーアは迫害の歴史をたどり、彼らはこのタキーヤの教義を支配者から命を守る為の手段として更に発展させることになります。

 「確かに、タキーヤは私のディーン(宗教)であり、私の父たちのディーンであるタキーヤを保持しない者はディーンを知らない者である」(イマーム・ジャアファル・サーディク

このようにタキーヤはシーアにとっては生き延びるために必要なものだったのです。 
また、タキーヤはその時の状況や危険度などにより義務となる場合とそうでない場合、その逆となる場合など、細かくきちんと規定がなされているようです。
逆となる場合というのは、ジハードなどでイスラームの為に殉教の道を行き、信仰を表に出すことでそれがディーン(宗教)を支えることになる場合などです。


~タキーヤの問題点~
タキーヤは前述の通り、クルアーンやハディースに示されているものであり、身を守る為に不信仰に見せかけた信仰なので、信仰に見せかけた背信、不信心とは全く別物です。
ですが、現代社会においてはこのタキーヤが拡大解釈され(ジハードと一緒ですね)、一部では例えば外交上のただの方便など、元来の意味合いとは少し違う使われ方をしている一面もあるようです。
ムスリムの流血を防ぎ、命を守る為のタキーヤですがイスラーム内外からの批判を避け道を逸脱しない為にも正しい理解が必要だと思います。


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